ここのところ知性とは何だろうか。そもそも何のためにあるのだろうか、というようなことを考えている。
 以下はとりとめもない雑想。
 
 
 知性は特別なものではなく、人は誰しもそれを備えることができる。
 しかし現実には知性がある人と知性がない人に、人は分かたれてしまう。
 
 知性がない人は、知識がない人ではない。
 しかし知識がいくらあっても知性がない人はいる。
 頭を知識でどれほど満たそうとも、自分がいま頭に収めている知識で全てが事足りて、あらゆる現象を解釈することができ、これ以上は何も吸収する必要がないと思えば、その瞬間にその人は知性のない人になってしまう。
 
 知性とは何だろう。
 それは開かれた態度をもって、自分とは異なる存在との間に良好な関係を構築できる力を、人に与えるもののことではないだろうか。
 誰かとの間に良好な関係を構築するためには、相手の思うところを知り、自らのあり様を知り、その間に接点を設け、不愉快を発生させぬように努めつつ、時間と空間を共有できる状態を作り出さなければならない。
 それをなし得る力を人に付与するのが、知性ではあるまいか。
 だから人が知性を備えている場合にだけ、異なるものを受け入れた、開かれた形での共同体が構築されることになる。
 
 いま現在、その人に知性が失われていたとしても、それは永久に回復不能なわけではない。
 知性とはふるまいによって決まるものなのだから、ふるまいを変えればたちどころに知性は回復する。
 しかし人は自らの今のふるまいに居着きがちなものであるから、それを容易に成し得ない。
 それを思うと、知性を失わぬようにと努めるのは、不断であることが要求されるのかもしれない。
 
 知性はいったい何によって担保されるのだろうか。
 おそらくは空間的な、あるいは時間的な意味での他者に遭遇し続けることによって担保されるのではなかろうか。
 つまり知性を身に備えるには、他者との出会いを常に求め続けなければならない、ということになるのかもしれない。